椿神社

椿山は、全山が1万数千本の椿におおわれ、4月から6月にかけて、丘陵一帯が真紅に彩られます。「ツバキ自生北限地帯」として国の特別天然記念物に指定されています。

椿神社沿革
『一.御祭神…猿田彦大神・天鈿女命(猿女君)。一.例祭日…5月3日。一.境内地…4,639坪。一.由緒…文治(1185年頃)の初め椿山にまつわる伝説の祠があった。天正年間(1573-91)には椿崎大明神と称した。明暦(1655-57)年中より椿大明神を祀る。創立は元禄11(1698)4月3日椿宮女人を神霊として建立した。安永2年(1773)椿神社と改称し、明治6年(1873)村社と列せられ、猿田彦大神を祀る。昭和26年(1951)境内地(官有地)が大蔵大臣名をもって無償譲与があり、昭和27年(1952)12月2日宗教法人設立登記する。昭和46年(1971)馬頭観音堂を境内地に移転遷座する。昭和51年(1976)神楽殿兼社務所を新設する。昭和61年(1986)社殿を改築する。一.祈願…豊漁、豊作、海上安全、交通安全、魔除の神として信仰される。一.特記事項…横峰嘉平と玉女の悲恋物語の伝説がある。鰐口2個蔵している。その1個には次のような銘がある。「奉寄進椿崎大明神諸願成就子孫繁昌上総国小糸城主里見豊前守源義次四代之孫里見萢左衛門尉源敏啓元禄九丙子年(1696)五月吉日」。また1個は延享3年(1746)年8月田沢邑の小十郎が寄進している。平成18年5月吉日椿神社宮司佐々木光清』

椿伝説

越前商人の横峰嘉平という人が交易に訪れたとき、村の娘お玉と契り、末は夫婦になろうと誓い合った。しかし嘉平は商用で一時国へ帰らなければならなくなり、お玉は「京の女がつけている椿の油が欲しい、今度来る時はその実を持ってきてください」と泣いて別れた。
お玉は嘉平を待ち続けたが、約束の年になっても船は来なく、待ち焦がれたお玉は、嘉平を深く恨んで海に入って死んでしまった。
村の人々は泣き悲しみ、海が見えるこの地にお玉の墓をつくって埋めた。
その三年後、嘉平は約束の椿の実を持って帰ってきた。ところがお玉は待ちきれず自死している。それを村人から聞いた嘉平は、倒れんばかりに嘆き悲しんだ。せめて慰みにと椿の実をお玉の墓のまわりに埋めてやるとそれが芽を出し、年々繁殖し今日のように椿が山を覆うようになった。