第二十六話 弘前藩採薬御用になる

河童が人間や馬に悪戯をした後に捕まって懲らしめられ、詫びの印として薬を渡したり、調薬の方法を教えたという河童の妙薬伝説は全国にみられる。
薬の種類には、骨接ぎ、打ち身、熱傷に効く薬などが多いが、河童は相撲好きで、怪我が多いためにこうした薬を持っていると考えられ、水の妖怪である河童が金属を嫌う性質から、刃物による切創に効果が高いなどともいわれる。
岡長平の著書『岡山太平記』に「狸伝膏(ばけものこう)」という話があるが、どうやら
河童の妙薬はこの『宿直草』の時代よりも後に民間に登場しているため「たぬき薬」が改変されて河童の伝説が生まれたとも考えられる。

□弘前藩採薬御用になる
真澄は東北を歩いた紀行家とか単なる旅人ではない。
出自では「春星散」という秘薬を伝える薬師の家系とされる。真澄自身も尾張藩の藩医・浅井図南から本草学の指導を受けており「薬師」であったのは間違いない。後年に「金花香油」という万能の塗り薬を製薬している。
薬の自給自足は藩の防衛と産業振興の要である。例えば富山の反魂丹や感応丸、加賀の紫雪、佐賀の疝気一服湯は藩財政を潤す薬だった。
弘前藩は寛政6年(1794)、他国で製造した売薬禁止令を出し、厳しい統制を図った。薬の自給自足をせざるを得なくなった藩医は領内を巡り採薬しなければならない。ちょうどその頃に秋田へ向かっていた真澄が弘前に入った。他国の者を採用するなど異例であったが、表医の小山内玄貞は本草学に詳しい真澄を呼び止め、藩医の上役に面接してもらった。
かくて寛政9年真澄は弘前藩の採薬御用の手伝いに採用されることになる。
だが弘前藩は7年勤めた真澄の行動を不審に思い、日記や紀行を押収の上、軟禁した。どうやら深山を歩いて隠し鉱山などを知りえたことが原因かもしれない。
真澄は秋田藩に採用されてからも積極的に鉱山を訪れている。もちろん藩が厳重に管理してため坑内には入れなかった。
こうした行動が菅江真澄は隠密だったという一部の妄想を生むことになった。
□器用貧乏だった真澄
天明八年(1788)5月、津軽藩江戸屋敷詰の比良野貞彦が、藩主の津軽信明に随行して津軽入りし、寛政元年3月まで滞在した。
谷文晁に師事し、「外浜人」「嶺雪」と号した比良野は、「道中記画巻」「外浜画巻」「奥民図彙」を残しており、もしかしたら真澄と会っているかもしれない。
もう一人は弘前藩のお抱え絵師、百川学庵(ももかわがくあん)だ。
百川は幼くして江戸に出て、そこで谷文晁に出会い南画の作風を身につけた。特に比良野の原画を元に25枚の連作「津軽図譜」は江戸後期の津軽地方の景観を描いた傑作と言われている。
だが二人とも絵師であり、真澄のように生涯で5000首以上の歌を作った歌人ではない。
旅先でも歌人たちと交わり、稲作の手順や農民の暮らし、土地に残る昔話や伝説・伝承も採取図絵では「さしこ」や「こぎん」などを詳細に描写している。
画や和歌、薬師など様々な学びをした真澄。いわゆる器用貧乏で、単独で生計を立てるほどの力量はなかったかもしれないが、真澄の生き様を見るには、画と文と和歌のセットが外せない。
真澄の目は常民の目線を外していなかったため「具体的で客観的で好意的なまなざしが真澄の真骨頂」と柳田國男は言う一方で和歌は否定した。