第六話 野辺地の関所を超える

伊能忠敬が測量で全国を歩いた総距離は4万3682Kmと軽く地球一周を超えている。
それよりも歩いた日本人は昭和の民俗学者「宮本常一」(1907~1981)がいる。
その総距離は16万Kmで、地球を4周できる。
ちなみに地球を廻る人工衛星は1時間半から二時間だ。
もちろん移動手段は馬や篭があるが、基本は徒歩である。
通信も未発達の時代でパソコンやスマホはない。
だが意外だろうが、現在より人々は移動していた。

野辺地の関所
馬門(野辺地町)の着いたのは暮れ三つになっていたので、真澄はここで宿を取ることにした。
この野辺地の湊は北前船が立ち寄り、大いに賑わっており、歴史的に見れば現在と全く違う経済圏の青森であったことが見えてくる。
街は商人が忙しく歩き回り、近在の農家や漁家が市を出して客の足を向けさせる。通りは小荷駄の馬や荷車、振り売りも歩く賑わいであった。
明くる朝、南部藩関所へ出向き、関手(関所手形)を役人に差し出す。
「おめさ、どこさいくど」
と番所の役人は問う。
「わぁ、いっとま浅虫に行ってくるけぇ」
と返答し余計な話は避ける。
「おぉ浅虫けぇ。え温泉らしいな。わも行ってみてえのぉ」
役人は笑いながら関手を返してよこす。
“馬門の関にれいのせき手出して、やをら越ゆ”
――これで通行は大丈夫だ。
ところで真澄が関所で出した「れいの手形」とは、どこでもらったものだろうか。
元々青森は全てが南部藩の所領であった。だが秀吉の時代、大浦(のちの津軽氏)為信が津軽藩として独立して以降、藩同士の仲違いで常に小競り合いが続き、最後の戦は幕末に突然津軽藩が南部領に侵攻したことだろう。
ゆえに維新後も南部と津軽は県庁所在地で綱引きをした。新政府にしてみれば、古臭い津軽と南部の確執などに時間は掛けられない。そこで両藩から一番遠く政治・経済など地政学的にみても良く分からないまばらに家屋があるだけの寒漁村の青森の地を県都と定めた。
南部と津軽の対立はあるが、江戸時代ともなれば、海も陸も往来が活発化したことで番所の手続きは緩くなっていた。
□藩境を越えて
春の心地よさは野辺地の喧噪さえ優しく聞こえ、旅の足取りは軽い。
ほどなく小さな小川を挟んで二つずつ整然と並ぶ盛り土が見えてきた。
この盛り土の藩境は慶長9年、徳川幕府の命で全国に一里塚の設置が義務づけられたことを受けて承応年間(1652~1654)に構築されたといわれる。
だが2基1対の上盛り塚は全国的にも珍しく、真澄は他所で見聞したことがない。(のちに岩手県で見る)
――川の名前は境川か、ここが本当の藩境なんじゃな。
川をひょいと飛び越えれば、津軽藩清水村(平内町)である。