第十九話 善知鳥崎の桟(うとうまいのかけはし)

“桟橋や命をからむ蔦葛” 松尾芭蕉
古くより中仙道の三大難所の一つ「木曽の桟」は、街道屈指の難所で、断崖に差し込んだ丸太の上に板などをあてて通行できるようにしていた。
因みに皇女和宮の行列は、この桟をどのように通行したのだろう。
現在も対岸から尾張藩は大規模改修した古い石積みを見ることができるが、木曽川の対岸に国道19号の付け替えが行われ、普通に通行しても「かけはしトンネル」の名前で確認できるのみである。
「木曽の棧(長野県上松町)、太田の渡し(岐阜県美濃加茂市)、碓氷峠(長野県と群馬県の県境)がなけりゃよい」と言う戯れ歌があり、橋幸夫の『木曽ぶし三度笠』でも歌われている。

□善知鳥崎の桟(うとうまいのかけはし)
現在の国道4号線の善知鳥トンネル辺りの海沿いにあり、明治天皇の行幸があるまで名の知れた難所であった。
桟とは断崖にへばりつくように築かれた道で、善知鳥崎の桟も岩場に板や梯子を渡しただけの小径であり、打ち寄せる波の合間に打ち寄せる波に攫われないよう駆け抜ける当時はちょっとしたアドベンチャー・スポットになっており、わざわざ見物に行っていたようだ。
平頼盛が悲しみ“親不知 子はこの浦の波枕 越路の磯の泡と消え行く”と詠み「親不知子」と名が付けられた新潟県糸魚川市の北陸道の難所は、善知鳥崎の桟とよく似ている。
トンネルの手前に古戦場の標柱がある。なんと鎌倉幕府と奥州平泉の郎党の戦いだと言うから本当に古戦場である。
――善知鳥碕の桟が。こごは以前、来てらどごろじゃな。
実は3年前(天明5年)に蝦夷へ渡ろうと秋田から青森に入っていた。
――こごで、この海渡るのはいづの日がいが、吉兆占って貰うべ。
と真澄は善知鳥神社に寄る。
しかし占いは3年待てと出る。
諦めきれない真澄はあくる日、善知鳥崎の桟に出かけた。
そこで鍋釜を背負い、幼い子を抱えた男女と会ったのである。
――こぃは飢饉の青森恐れ異郷さえぐらすい。このまま浜道行げば飢えでまるがもすれん。
蝦夷で飢えることを恐れた真澄は津軽海峡を渡ることを断念し、盛岡に向かった。
真澄は北海道行きを断念したときのことを思い出しながら、いつ何時波に攫われるか分からない、ど真ん中に立ち和歌を詠んだ。
“あめに雲ふみて木曽路の橋ならで礒波高くかゝる危うさ”
真澄が行ったときは凪だったのだろうか、それでも何という度胸だろう。
親不知子とともに、二大険路と言われた善知鳥崎の桟で、真澄は比較に親不知子ではなく木曽の桟を詠み込んだ。
これは真澄が実際に見た木曽の桟の印象が強かったせいだろう。