第二十二話 童子村の正月

この時代は、朔日(ついたち)に山のご来光を拝む行事はないが、引ノ越山は童子村の信仰の山で、旱魃の時には山に籠もり雨乞なども行われており、昭和32(1957)年から数年間は参詣も行われていた。
真澄は弘前で、面白い行事として旧暦8月15日に笛太鼓を鳴らしながら「懺悔、懺悔」(さいぎさいぎ)と唱えて過ぎていく人々を真澄は見ているので盆行事はあったのだろう。

□童子村の正月
“はやくも暮れようとしている。みちのおく津軽路に、雪中の生活を今年も送って、ここは平内のほとり童子という山里の比岐乃己志が獄の麓である。除夜になると旅の宿屋もむさくるしい窓の戸をさし閉ざし、家族みんながそろうのを待って、大臼、小臼を屋内の庭の隅にふせ、すびと(囲炉裏)の木尻と言うところには親鍋、小鍋をふせて、やがて家の人はすっかり寝静まってしまった”《津軽のつと》
寛政10年(1798)、真澄は童子村で年越しをしていた。
残されている図絵を見ると冬の童子村と引ノ越山らしく、滞在中に描いたと思われる。
コケコッコー!鶏が新年の朝を告げる。
――おぉ新年がきたか。
真澄が支度を調えていると、精進潔斎したとしみの男(正月や節分行事をいっさい行う年男)がむしろを敷替えている。
家の者が全員起きた頃、大勢の村人が大雪を踏みつつ、歌をうたいながらやってくる。
「何事じゃ?」と家人に問う。
「こぃは朝はえぐ明げ星いだだいで、春木かぐるだめに奥山さ入り、めいめいが斧するす立木にうぢづげ、帰ってぎだどころじゃ」と教えてくれた。
明けて二日、結婚してから3年間は親元に行く習慣がある初嫁・初婿が刺し縫いをした「さなだ」(紺の粗末な短衣で肩に様々な刺繍入り)を着た男や晴れ着を着た女、樽背負いの孫八(下男)が、鏡餅や進物の鮏・鱈を重そうに持ち、夫婦の後を追っていく姿がたくさん見られた。
こうした夫婦が訪れる家はどこも賑やかで春めいた心地がする。常居(居間)の横座(上座)には、おっこ(老翁)が座り、えて(亭主)、あっぱ(女房)、おじ(弟)、おば(妹)、よて(末っ子)が居並び、去年から仕込んでいたどぶろくを酌み交わす。肴はたつ(鱈白子)、かどのこ(かずのこ)、たらこ、なますが大皿に盛られている。
飲むほどに歌も出る。八十の翁が“樽しょいのまごはつが~”と歌う。
三日、朝早くから婿嫁が蒲のはぎまき(はばき)、えび葛のはぎ巻き帰るまかないだち(支度)をしていた。昔は七夜泊まって、舅の家の寒飯(ひやめし)の湯づけを食べてからでないと戻ることはなかったが、100年前から変わったという。
四、五日は近隣の者が古びた羽袴を昔風に着て新年の挨拶にやってくる。
真澄が記した昔風に着るとはどのようなものかは不明である。
訪問者が古ぼけた扇を半分開き、酒代わりに一包み銭を出すと、家主は頭を下げて濁酒を勧める。挨拶に来た者は「わっきゃ、あぢごぢで十分頂戴すて、もうがっぱじゃが」と言いながらも盃を幾度も傾け、そのうちに山歌を高い声で歌い出した。
“下山で鉈で船うつ桂船、海さ降ろして黄金積む、綾や錦の帆を揚げて、これの座敷へ乗り込んだ。これの亭主は果報な人”
なおこの辺りでは七草粥の行事は全くないと真澄は記している。