第二十一話 奇異な姿の引ノ越山

“比岐之己志が嶽のそびえたる三角がたけの、不二の俤に霞み”(津軽の奥)
真澄の文章の特徴に目の前に人が現れ、ひとしきり話をすると去って行くパターンが多く、これは夢幻能の基本形に近く、真澄は意識して活用したかもしれない。
もう一つの特徴は、目の前の情景や出来事に古今和歌集ほか古歌や各地の伝説を想起させる言葉が編まれていることだ。
真澄の頭の中には古い和歌の辞書が存在していたのだろう。それにしても初見でそれらを結びつけて書き留めている点は天才肌と言えるかもしれない。

□奇異な姿の引ノ越山
寛政10年(1798)、真澄は童子村で年越しをしていた。真澄が絵にした「引ノ越山」は、周りの山々と違い山頂まで尖った円錐形の山である。
滋賀と岐阜の県境にある伊吹山は引ノ越山に似ており伊吹童子の伝説も残る。
この伊吹山で真澄が採薬をしていた頃は「白井超」あるいは「秀超」と名乗っていたらしい。
名前をコロコロと変えた有名人に葛飾北斎がいるが、真澄もよく名前を変える人物であった。
それにしても引ノ越山を見て、富士山とは言っているものの、採薬で赴いた伊吹山に一言も触れていないのは不思議である。
単一山では近江富士と呼ばれる三上山や讃岐富士と呼ばれる飯野山、奈良県の鎧山がよく似ているが、平内町の貴重な山であることは間違いない。
引ノ越山の山の表面は昔から部分的に安山岩が露出しており、岩山であることは多くの人が知っていたようだ。
安山岩は固くて水分吸収率が線路の敷石に適している。
これに目を付けた地元の採掘業者は主に国鉄(現JR)への敷石供給やコンクリート材として採掘を始めた。当時は採石の採掘方法にルールがなかったため、西斜面を三方から次々と崩していき現在の姿になった。
だが緑化復元の義務を負っていた業者はその後、負債を抱え倒産。
結局山は当時のまま放置されてしまった。
採掘で姿が変わってしまった山に前述した伊吹山や秩父市のシンボルであり信仰の山である武甲山がある。いずれも植栽して復旧を試みているものの採掘をしたため昔の姿とは言えない。
漁師が「山目をにらむ」(漁民が網を立てるときの目印にしている)として、山頂から東側の所有者である役場は採掘業者に売らなかった。
「山目をにらむ」とは、夏泊と津軽半島の山の峰を肉眼でにらみ、定置網を設置することだ。もはや漁師全員を人間国宝にしたい技持ちである。
童子地区のシンボルである山が片側半分を削られ、今の無残な姿になっていくことに抵抗はなかったのだろう。
だが引ノ越山の山頂部を残せたことは町の大功績である。
内童子と外童子
江戸時代に童子村と称したのは内童子村であり、東の外童子村に対して童子村は内を付けて分けていたのが始まりであろう。真澄が滞在していたのは内童子地区であったと思われる。
現在も内と外の二つの童子地区がある。
外童子村は、弘前藩と黒石藩の二藩の間を行ったり来たりしていたが、内童子村は一貫して黒石藩領であったようだ。市立弘前図書館が所蔵している「黒石平内巳年郷帳」によれば、童子村は稲作中心であった一方で、外童子村は薪や山菜やキノコなどを産出し林業中心の経済だったようである。両村の同年度のデータは無いため、一概に比較できないが内童子村が132石に対し、外童子村は61石との記録が残っている。
さて童子と言えば酒呑童子を大将とする童子四天王が頭に浮かぶ。だが真澄はそうした話を一切引いていない。真澄が酒呑童子伝説を知らないはずがないのでこれは非常に珍しい。