第五話 真澄、夏泊半島へ旅立つ

“極楽の浜のまさごち踏む人の終に仏がうたがひもな”
高熱によるうつつの中で、仏ヶ浦の風景と浄土がごちゃ混ぜになる。
どこからか陽気な南部の唄が聞こえる。
~田名部横町の川の水のめば 八十ばさまも若くなる〔チョイサチョイサ〕
~八十ばさまが若くもなれば 焼いた魚が泳ぎ出す〔チョイサチョイサ〕
「かさまい、のまさまい」(来なさい、飲みなさい)と呼ぶ声が聞こえる。
――わはいったい、どこにおるんじゃろう。
夢は仏ヶ浦と恐山が輪廻のようにグルグル回る。

□真澄、夏泊半島へ旅立つ
北東からの海風は、重く湿気が含まれている。
――まもなく「やませ」が吹くか・・・、まさかここで3回も冬を越すことになろうとはのう。
渡り鳥のように旅に明け暮れる真澄にとって、足を止めることは我慢がならない。しかし冬の移動は危険だと友人たちに止められ下北半島田名部に長逗留となっていた。
「そう言えば椿崎のヤブツバキが見事だと聞いた」共に庭を眺めていた菊池成章が言った。
「そうですか。下北もほぼ見尽くしたし、そろそろ暇(いとま)の頃かもしれんな」
と答えた真澄の魂魄は、既に旅の空にあった。
思い立ったが吉日と「まかなひたち」(草鞋や脚絆などの旅支度)をそそくさと整える。
下北で見聞し書いた図絵のほとんども世話になった山御用係の渋田政備や医師の三上温らに献上した。
かくて寛政7年(1795)3月22日の明け四つ〔午前4時〕、真澄の足は夏泊半島へ向けて歩み出していた。
田名部で集積された物資は、陸路で大畑・野辺地などの村々に運ばれる。そのため街道が整備されており、はや雪も溶け道中はぬかるみも無く歩きやすい。
途中で馬門の温泉からの帰りなのか陽気に歌をうたいながらやってくる一団に出会った。
談笑の中で「あぐり子よ、にがつれてこ、乳のませんにと」と話している。「あぐり子」は「阿栗子」と書く。意味は女子が生まれすぎ男児が欲しいときに「おあぐり」と名付けたそうだ。
江戸時代の一般庶民は一日十里(30~40km)歩いていた。
真澄は38歳の若さで健脚である上に、長い距離は兵法書「万民千里善歩伝」の歩行なら、もっと長い距離を移動できたろう。
ところが様々なモノやコトに気が取られることが多々ある真澄で道草は普通であった。
幕末に来日した外国人は「前傾姿勢でつま先に重心を置き、膝を少しためて小股で摺り足気味に歩いている」と見ていたようだ。
草履やわらじを履いていた頃の日本人は、地面にかかとがしっかりとついていた。ところが靴を履くようになって、つま先のあたりに圧力をかけるようになり、歩き方が変わってしまったと九州共立大学の木寺英史教授と論じる。
江戸時代の人々の歩行は「ナンバ歩き」であったとする説もある。
「ナンバ」は歌舞伎の六方のように、同じ側の手と足を動かして歩く動作であり、古武術研究家の甲野善紀が著作で最初に述べたものだ。
類似の歩き方にテレマークスキーがあり、青森の方なら理解しやすいと思う。
学術的には立証されていない説は反論続出であった。