第四話 下北半島のいにしえ

“ねんねんよ おころりよ 坊やはよい子だ ねんねんよ”
赤子の頃の夢なのか岡崎の子守歌がグルグルと頭を巡る。
諸国の神社や寺々や名勝古蹟を訪ね歩き、その見聞したところを故郷へ帰って父母や親しい者に聞かせたいと豊橋を出立してから12年。
下北半島での暮らしは、浦島太郎がごとくいつの間にか2年半の月日が流れていた。

□下北半島の「いにしえ」
東廻り航路と西廻り航路の結節点の牛滝は、美味しい情報が満載の湊町である。三河方面からの船も寄港し、船乗りたちの三河弁を聞くたびに“そろそろ帰りたい”望郷の思いが募る。
下北半島は真澄が興味を示す「いにしえ」の風習や祭、神社がたくさん存在していた。
――これを見聞せずに帰るわけにはいかない。と真澄は故郷への思いを振り払った。
京都祇園祭の流れを汲む豪華な山車が出る「田名部まつり」〔田名部神社例大祭〕は、すでに現在の運行形態に近い状態で行われていたらしい。(牧の朝露より)
田名部神社は海運・天候・農耕の神である「味耜高彦根命」(あじしきたかひこねのみこと)を祀るため、地元の方は「がんべ祭」(雨の祭)と言って信仰している。
図絵では大畑町の「ねぶた祭」が残っているが、さすがに現在の祭とは趣が違う。大湊でも「ねぶた」が催行されており、下北半島全体でこの祭は盛んだったようだ。
豊作祈願の鳥総(とぶさ)という行事も記録しており、地域にある全ての文化や暮らしに対して、民の側から「まなざし」で克明に記録している。
□自主的に情報統制をしていた真澄
情報が溢れる中で、絶対に政(まつりごと)だけは見聞しても記述しなかった。
三河から東北に来る道中の関所で何度も大切な道中記を取り上げられた。その経験から、基本的に政治向きの話は意識的に避けてきたと思われる。
しかし一つだけ例外がある。
寬政4年(1792)10月、ロシアに漂着し滞在していた大黒屋光太夫が、ロシア使節を伴い根室に帰ってきた。この事件を真澄は松前で聞いていたが、人前で話したり記録に残さなかった。
鎖国をしていた江戸幕府にとっては大事件である。光太夫とロシア使節ラックスマンの一行をどうするかで幕府も神経を尖らせた。たまたま佐井村で幕府の役人と同宿となり、役人が大騒ぎとなっている場面に遭遇し、面白いとつい筆を滑らしてしまった。この記述は特異なこととみるべきだろう。
大黒屋光太夫は井上靖が『おろしや国酔夢譚』を書いているので興味のある方は読んで欲しい。
□寬政4年の鰺ヶ沢地震
この年の12月28日(現在の2月8日)、午の貝を吹く頃(正午をホラ貝で知らせた)に地震が発生、人々は高い雪の上に登り、「まんざいらく、まんざいらく」と万歳楽を唱えた。家は浪に揺れる舟のように揺れ軒は傾いた。日記「まきのふゆがれ」で書いている。
のちに「寬政西津軽地震」(鰺ヶ沢地震とも呼ばれる)と名付けられたマグネチュード7前後の大きな地震である。最も揺れたのは鰺ヶ沢町と深浦町で震度六と推定される。
赤石で6m、舞戸で3.3m、鰺ヶ沢で2.8mほどの津波に襲われ、礒で魚介類を獲っていた漁民が溺死し、十三湖にも津波が流入した。
人的被害の記録としては、死者12名(津波による死者3名)、家屋全半壊425戸。
山間部では山崩れによる複数の河道閉塞、海岸線では隆起や沈下が記録に残っている。また、五所川原を中心とする津軽平野では液状化現象や地割れが確認された。
たが、真澄のいた田名部は30cmの潮位で済んだと「津軽年表」に記録されている。
ところが弘前図書館で纏めたとされる、その古文書の所在が不明だということで、この記述が正しいかどうかは確定されていない。