序章 還らざりし人、見果てぬ夢

「真澄遊覧記といふ名称は、久しく我々も踏襲してはいたけれども、この紀行の大部分は遊覧記を以て呼ばるべきもので無かった。その特長は何に存在するかといへば、第一には世に顕れざる生活の観察である。あらゆる新しい社会事物に対する不断の知識欲と驚くべき記憶である。小さき百姓たちへの接近である」と菅江真澄を発見した柳田国男。
その柳田が「民俗学の祖」と評した菅江真澄とはどのような人物であったか。
資料によると宝暦4年(1754)三河国牟呂村(愛知県豊橋市)で生まれ、文政12年(1829)6月、秋田県角館市で76歳の漂泊の生涯を閉じたとされる。仙北市田沢湖梅沢で没し、遺骸を角館の神明社に移したとの説もあり墓は角館にある。
生い立ちから旅立ちまでは、本人も語りたくない闇であったのか謎に包まれたままである。
30歳となった天明3年(1783)2月末に愛知県豊橋市(岡崎市とも)から旅立ち、信州を抜け日本海側を北上し秋田・青森・岩手・宮城・北海道を漂泊した。
現存する日記や図絵は「伊寧能中路」(いなのなかみち)からで、南信州の飯田からは日記も絵も句もたくさん残し、東北(秋田が中心)に至っては70冊を超える紀行や随筆、図絵など膨大な著作が現存する。
青森県では親しい人に「帰郷する」と真澄はよく言葉にしていた。
だが望郷の念はあっても、なぜか二度と故郷の土を踏むことはなく、秋田県角館で死没した。
『還らざりし人・菅井真澄』が見聞した、陸奥湾や夏泊半島の物語を書くにあたり、筆者は真澄を真似て一つの物事から、唐突に別の話へ想像を膨らませる手法を採用している。
このためまとまりのない文となっていることはご容赦いただけると幸いである。

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