第七話 菅大神

“いそやかたを過るに、女の声にうた唄ふを近づきて見れば、あさり貝ほりとる也”
――透き通るような良き声じゃ。
海風に乗って聞こえて来るのは女が唄う浜唄だ。
目をこらすと海岸で少女がアサリを採りながら唄っていた。
万葉集研究の第一人者の森山弘毅は「歌の場」の膨大な描写は、それぞれがその風景の中の一点景として捉えられる近世村落のリアルな『唄う風景』であると論じている。

□菅大神にぬかずく
街道を行くと狩場沢から陸奥湾沿いを離れ、一端、山側に折れる。
――坂道を登った先にはたしか天神様の祠があったはず。ちいと寄っていこまい。
と久しぶりのひとり旅で、うっかり三河弁の独り言が出る。
真澄は自ら「白太夫」の家系と名乗っている。
白太夫は伊勢神宮の宮司であり、『日本書紀』に登場する菊理媛(くくりひめ)を信奉する家系とされる。世継ぎを願った菅原家の祈祷を白太夫が行い、菅原道真が誕生したとか、都から「飛梅」を太宰府まで届けた等々の伝説がある謎多き人物である。
赤坂憲雄は「『白太夫も子孫』が気に掛かる。シラの系譜を中世の白比丘尼・白拍子・白鬚明神から白神山へ、さらには三河の花祭りのシラ、穀物の霊魂にかかわるシラ、東北のオシラサマへと辿り、シラをめぐる精神史を思い描きながら、歌舞と物語を携え歩いた巫覡(みこ)の家筋の末裔として、真澄の姿を浮き彫りにすることはできるだろうか」と自問している(真澄学第1号)
――わは天神様に縁がある。ここは素通りするわけにはいかない。
菅大神の祠は坂道を上った先の左手にあった。塀も無ければ垣根も無い。ただ祠の廻りは手入れが行き届いており、集落で大切にされていることが判る。
(狩場沢のせき屋にいたる。みな、むかし通りける道なれど、見奉らざる菅大神の祠とて、さゝやかなる、めをのはじめの石、雷斧石、雷槌石など云ふ、ことなる石どもををさめたり)
鎮守の森に囲まれて鎮座した祠には【石棒(男性のシンボルを象ったもの)】を中心に、陰陽石、雷斧石、雷槌石など変わった形の石が祀られていた。
「昔、畑耕すてあったどぎなぁ、鋤さコツンど当だった。石は耕作の邪魔者ど掘り返すと【コーヘン様】が出でぎだ。そえでこぃは大事なものどご本尊どすて奉っております」と里人は言う。
――陰陽石が天神様か、雷神か、どこで変化したか知らないが、まぁそれは聞かずにおこう
掛巻も 畏き(かけまくも かしこき)
天滿天神の 廣前に白す(あまみつあめのかみの ひろまへにまをす)
恭 惟れば 帝道を 輔佐り(うやうやしく おもんみれば みかどを たすけまつり)
真澄は丁寧に額突き(ぬかづき)頭(こうべ)を垂れ、祝詞を奏上するに留めた。