第十二話 真澄「はたれうた」を作る

津軽は第二のふるさとと言った司馬遼太郎は「津軽弁ができなくてずいぶん損をした」
   と零していたそうで、それほど津軽に愛着があった。
津軽の何が司馬を引きつけたのか私はこう思っている。
「よぐきたなぁ」は、津軽の絶対的なウエルカムな言葉だろう。
「こぃけ」「あれ飲めじゃ」と怒濤の接待をする津軽の方々は訪問者を喜ばせる。
ゆえに『北のまほろば』と言った司馬遼太郎は、このとっておきの優しさに惹かれたのではないだろうか。
その司馬よりも長く滞在し青森県内を三度も歩いている真澄も同じ気持ちだったか。

□真澄「たはれうた」を作る
取材で歩いたときの陸奥湾は凪状態で、青く明るかった。
陸奥湾は凪なのか大人しく、波間の小岩に止まる海鵜は羽を広げ乾かしている。
左手はマサカリの下北半島で恐山の風車に風力発電が連立している。右手に津軽半島が見え、真ん中には遠く松前半島のあたりが霞んで見えた。
風車の数は不明だが、真澄が見たらどのような図絵を残すだろうか。
真澄は馬屋尻あたりにさしかかった。
――なんと素晴らすい景色じゃ。
真澄は思わず足を止め景色を堪能する。
――こごは一夜の宿借りでなんたかんた、朝の風景見で見でえものだ。
 とすっかり魅了されてしまった。
 ところが一夜の宿を無心しても、どの家も「ふとみだりに泊めぃばまいねとおふれが出でら」と、つれない返事ばかりである。
真澄の旅姿は羽織袴に道中差で、役付きの身分とみられたのではないかと宮本常一は推量しており、学者然とした菅江の容姿は、通常は粗末な扱いをされないで済んでいた。
しかし、これは思わぬ対応だった。
“浦の名の藻くず敷寝んあまの子よつれなく今宵宿貸さずとも”
などと歌を詠みながらトボトボと歩いていると、ようやく古老が泊めてくれ夕飯に春の山菜が振る舞われた。
嬉しくなった真澄は即興で「たはれうた」〔戯れ歌〕を披露した。
“浜風の ふくべく(ニリンソウ)のり(海苔)も つみぬらむ ひる(蒜)やしほで(牛尾出)の 水(ミズ)もあざみ(薊)に“
 真澄の和歌や戯れ歌は、初めて出会う地元民とのコミュニケーションに有効だった。
柳田國男が酷評した和歌は、旅先で話を聞く武器と考えれば、政府の役人の立場で話を採取した柳田とは違い、和歌で地域を言祝ぐことで庶民目線の風俗が現れるのだ。
和歌を詠み絵図を描いて、それを出会った人に見せるだけで打ち解ける。
 初対面の人の心を開くには、和歌と図絵は大変重要な位置を占めている。現在インスタグラムなどのSNS等で見知らぬ人と交流し仲良くなっていくのと同じである。
その点で、いつでもどこでも即興で歌を作れたことは真澄の強みであった。その延長にちょっと巫山戯ながらも、様々な意味を含む戯れ歌は、すぐに打ち解ける武器だったと想像する。