第十話 雷電の森

“みつしほの浪のしらゆふあさな夕かけていく世になり神の宮”
南部氏に仕え福館を居城としていた七戸氏は、修理の代に津軽氏に帰順した。
これに怒った南部氏は報復のために大軍で攻め寄せたので、修理は迎え撃つため雷電宮へ戦勝祈願に向かった。
祈りを奉げていると、数千羽の白鳥達が次々と境内に舞い降りた。その羽音にすわ津軽の援軍かと南部勢は驚き、戦わずして引き揚げた。以来、白鳥は雷電宮の神の使いであるとされ、捕獲を禁じられた。

雷電の宮を訪ねる
“いさぎよきかもの河浪うつしてもふかき恵のかゝるかしこさ”
次の日、案内人を立てて改めて雷電社へ向かう。
福島村を左に見ながら、汐立川(森田川)に掛かる橋の半ばで案内人が歩を止めた。
「何事だが?」と真澄は問う。
「こごがら上流見でけ。ふずさん見えますじゃ」と言う。
上流を見ると多様の霞があるものの遠方に富士山に似た形の良い『引ノ越山』が見えた。
福館村へ入る川岸の長い葦(アシ)の先に藁や笹を束ねて結んであるのが見えた。
「こぃは何がのまじないが?」と質問すると、
「こぃは屋頭(やがすら)打づでしゃべって、この年さ屋根ふきてと思った者が、一月初めに自分刈る標(しるし)どすてえの主人立でだものだ」と案内人は言う。
――なるほど葦を刈る権利をこうして決めておるのか。
平川の村を過ぎて雷電社にたどり着く。
雷電宮は別雷命(わけいかずちのみこと)が主祭神で、御神徳は「五穀豊穣・海上安全豊漁・雷難除去・諸願成就の神様」である。手水舎の向かい側にある樹齢350年と言われる大杉は『降雷大杉』と言われ、人々を雷の被害から守るとされて避雷信仰の神社だ。実際、2005年の11月に大杉に雷が落ちたが住民の家は無事だったという。まさに我が身で住民を守る御神木である。
神明社の祠を拝みながら、雷電社の由来を聞きたいと思い立ち、神社に仕えている雷電山日光院の修験者のもとを訪れた。
由緒には「第五十代桓武天皇の御代、 延暦二十年坂上田村麻呂将軍創祀と伝えられる。往古蝦夷政策が進められた中に、 征夷大将軍坂上田村麻呂公は東北経営にあたったが、 奥州の夷賊高丸・大た基も・盤いわ具ぐ等が謀反し、 妖術で官軍を苦しめたので、 将軍神仏の冥助によって平定しようと多くの社寺を建立された。 当社はその一社と云われる。初め南部の某地に建立されたと伝えられるが、 何時の頃にか東岳に祀られる。 後東岳の社寺離散した時、 荒田 (今の平内町盛田) に再建。文禄二年、 洪水の為祠宇流されて現今の地に漂着」とある。
「大同2年に坂上田村麻呂が建立し、京都の加茂神社の神様を遷したと聞いているが当時に文書類は火事で焼失した」と修験者は言う。加茂神社は現在の京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)もしくは賀茂御祖神社(下鴨神社)がある。どちらの神社にも出産や縁結びに御利益がある玉依姫(たまよりひめのみこと)が祀られている。
真偽は不明だが坂上田村麻呂が東北に与えたインパクトは大変なものだったことが分かる。
“この夜、雷電の祠に夜ごもりはせりけり、その、いほそくらの法螺ふく声いと高し。神明の社にぬさとりその林に入れば、さばかり広きみなとは、なから厚氷のゐたるに雪ふりかヽりたるうへを、氷渡すといひて、ふみしだき渡りぬ。大空の霞たるやうに月の朧なる長閑さ。のどけしなみまへは春になるかのみたらし川はまだ氷るとも”
と真澄は日記に付けた。