“我道の神とも拝め翁の日”
時代はずれるが南信州を中心に放浪し、俳句を詠み続けた井上井月(いのうえせいげつ)がいる。表題の句は井月が崇拝しており、芭蕉翁を偲んで詠ったものである。
弘化4年(1847)3月、善光寺大地震があり、上信越地方の長岡城下も大きな被害を受けた。
藩の江戸表に勤めていた井上克蔵(克蔵)へ、家族が地震で家屋の下敷きとなり一家で死人が出たとの知らせが入った。
急いで帰郷すると待っていたのは、幼子を含めた家族全員の墓であった。
藩の逸材で将来の藩の重責を担うと思われていた克蔵であったが、悲嘆に暮れ藩務はおろそかになっていった。
□ほかいびと井月
数年後の安政5年。出自は語らず、みすぼらしい身なりで彷徨い歩き、呪言や寿詞を唱えて祝福する『ほかいびと』として、突然、井上井月を名乗る俳人が伊那に現れた。
井月は伊那市を中心に約30年に及び漂泊し、ただの一度も故郷に帰ることもなく66歳で死没した。
井月の数奇の運命と生き方、そして俳句は、山頭火を始め芥川龍之介や室生犀星に大きな影響を与えることとなる。
伊那谷は好学の風があり、風流風雅を嗜む風土があったため、井月には暮らしやすかった。
俳句の知識と詠みは抜群で、書を書かせるとこれは名人の域である井月は伊那の富裕層や知識人に歓待されたという。
小林一茶の俳句を本歌取りした“目出度さも人任せなり旅の春”などは句の集まりで大いにウケたことだろう。
『ほかい』は本来、神を祝福することを意味したが、いつか祭りや酒宴で祝い言を吟ずることを指すようになった。「魂斎」(ほかひ)からきているのではないかと推量する。
真澄は秋田で“番楽舞というものがあり、修験者が「ほふり」を舞う里がある”とも記述している。修験者が行う能や猿楽は村里の舞曲(あそび)として定着していったのだろう。
「ほかいびと」は門ごとに祝言を述べて歩き、報酬として米や物を得る人々を総称するようになっていった。大の酒好きであった井月は腰に瓢箪をぶら下げ、俳句や書のお礼に酒を振舞われると「千両、千両」と言うのが口癖であった。
真澄との相違は伊那谷という狭いエリアの漂泊であったことや絵は描かなかったこと、最も違う点は武士か商人の態で歩いた真澄と対照的にボロボロの衣服で歩いたことである。
“何処(どこ)やらに鶴の声聞く霞かな”これが井月辞世の句である。
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