柳田國男は蝸牛考で、東京や京都から最周縁にこそ、日本の原型や文化が残っていると言った。確かに祇園祭の流れや言葉が残るが、それは後年の話である。
明治9年(1876)の明治天皇の東北行幸に際し、宮内省から青森県に田村麻呂が埋めたとされる“つぼのいしぶみ”を探せとの要請があり、千曳神社周辺の大掛かりな発掘作業が行われたが、発見には至らなかった。ところが昭和24年(1949)、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)で、突然「日本中央」と刻まれた石碑が出土した。
“つぼのいしぶみ”は「どこにあるか分からないもの」との意味で東北の歌枕に使われており、古来より東北にあると認識されていた。だが平安時代は『日本』という概念も言葉も存在していない。
ではなぜ、当時なぜ「日本中央」と石碑に刻まれたのだろう。
□ねぶた発祥地・平内
“むかしむかし、阿闍羅山(あじゃらやま:大鰐町と平川市にまたがる)に隠れていた蝦夷の大丈丸が平内のやまに逃げた。田村麻呂軍は七夕の夜にねぶたを載せ、その下に兵を隠した船を出し、笛や太鼓、ササラで囃し立てたところ、蝦夷の首長は津軽へ逃げ去った”
この伝説が「平内ねぶた発祥地」の由縁である。
青森まで来ていない坂上田村麻呂の伝説は雷電宮で若干書いているが、とにかく田村麻呂伝説は義経伝説を上回る。
基本の筋立ては田村麻呂=正義、蝦夷=悪としており、朝廷はアイヌ・蝦夷は成敗すべき対象として、東北の民や土地を蹂躙する自分たちを正当化したのである。
その情報戦の担い手は恐山を開いた慈覚大師を中心とする仏教の一団と修験者であろうと推察する。朝廷のアイヌ掃討による東北占拠は、田村麻呂と義経伝説を併せた情報の流布で完成させ、その後、青森県内の寺社は田村麻呂の威光を背に勢力拡大を図っていった。
真澄はむつ市大畑で、「ねぶたも流れよ、豆の葉もとどまれ、芋がら、おがら」と子どもたちが声を張り上げて歩く(牧の朝霧)と「ねぷた流し」を書いている。
天明年間に間違いなく「ねぶた・ねぷた」の名称が使われていた。
本来のねぶたは子どもたちの七夕行事であったことを証明する行事が、北海道に残る「ローソクもらい」だ。
江戸時代ねぶたは子どもたちが作り運行し、角付けをもらっていました。当然現在のような大型ではなく弘前ねぷたに近かったと想像できる。ローソクは高価なもので子どもたちはローソクをもらって歩いたのだろう。
現在のねぶた運行での掛け声「ラッセラッセ、ラッセラー」は「ろうそく出せ出せ、出せよー」、「イッペーラーセー」は「いっぱい出ーせー」が語源である。
その名残が今も見事に残っている現在では和製ハロウィンと言われ、7 月7 日に玄関先で「竹に短冊七夕祭り、大いに祝おう、ローソク一本ちょうだいな」と歌うと家人がお菓子を用意していて配布するという。北海道の内陸部では「ローソク出せ出せ」と囃す地域もあるそうだ。