第二十五話 タラのおびれ

真澄が暮らしていた時代、初漁に出る日は、女たちが鱈の子を入れた粢(しとぎ)を作り、男たちは粢を身体中に付け漁に出る。この粢は鱈が獲れるまで付けたままでいる。
古代の粢は水に浸した生米をつき砕き種々の形に固め、それを神饌 (しんせん)とした。後世では、餅米を蒸して少しついて卵形に丸めている。そして初鱈が獲れると粢を神様に捧げ、鱈汁を周りの人たちに振るまう。推測だがもちろん酒も出ただろうから、大宴会で盛り上がったに違いない。

□タラのヒレが欠けた図絵
野内漁港(青森市)にタラ漁を終えた舟が帰り、活況を呈していた。
真澄は行き交う漁師の間を潜り抜け、水揚げをしている舟に近づくと何やらタラの選別をいきなり始めていた。
「こぃはおれの釣ったもんだ」と自分の笊に入れようとすると、
「いやこぃはおれだ。尾びれの欠げがあるびょん」と別の漁師が主張する。
――こぃは面白そうだ。なすて自分釣ったが判別すてらんじゃ
と身を乗り出して聞いていると後ろから肩を叩かれた。
振り向けば古漁師が怖い顔をして立っていた。
「おめ様、邪魔になるはんで、そごどいでけねべが」
真澄は食い下がる。古老の漁師は早く立ち去れと押し問答。
「教えでけ。こぃはどのように判別すてらのじゃ」
「仕方ね旅人だなあ。教えでけるはんでこっちへ来い」
「そごさ居るど、そのうぢに邪魔だど若ぇものに殴らぃるだ」
と苦笑いをしながら仕分けが終わったいくつかの笊があるところへ促す。
「こぃはな。漁師言葉さ“タラ食う”どぇうのがあってのう」古漁師は背ビレが欠けたタラを指さす。
「一づの舟さがっぱのふとが乗ったどぎ、自分の網にががった魚であるどの印さ。あるふとは尾ビレ食いぢぎり、あるふとは小ビレ食いぢぎる。食いぢぎるヒレがね時は、タラの背や頭を食い破るんじゃ」
――なるほど、これはわかりやすい。と真澄は頷いた。
真澄が《津軽のつと》で描いているタラの絵は、1番2番などと「タラを食う」順番を付けて説明しており、さらに釣ったか、網で獲ったかは、ヒレに傷があるかどうかで判別できると記述している。
□陸奥湾ブランドの入り鱈
江戸時代、大口魚と呼ばれた陸奥湾の「マダラ」は江戸時代からもてはやされた魚だ。
特に毎年冬になると「マダラ」は産卵で湾に入ってくる鱈は「イリダラ」と呼ばれブランド魚となっている。メスの子は大きく熟し、オスの白子は口に入れるととろけてしまう。身は柔らかく脂肪の少ない白身で、ソテーやムニエル、フライ、汁物や鍋料理にも好んで使用される。
津軽なら「鱈のジャッパ汁」なんて最高です。
陸奥湾では昔から冬至10日前に網入れし、節分までのおよそ50日間が漁期である。2023年は12月5日が解禁日だという。
雪が降り海も荒れる時化の最中に、凍み入るような寒さの中での鱈漁は、漁師にとって寒い痛い辛い漁は並大抵のものではなかったと想像する。
当時の漁場は茂浦から野内にかけての場と焼山沖の千石場であった。
しかし焼山沖の漁場は戦後の新漁業法の改正で、蟹田・平舘の漁業者は先祖が開発した場を締め出された。
ちょうど真澄が秋田や青森にいた天明の頃に『新鱈(しんだら)』と言う製造手法が開発された。刺網で獲った鱈を「壺抜(つぼぬ)」という手法で加工する。
段取りはこうだ。まず口から刃物を刺し込み内臓を抜き取り、その後に口から塩5升を詰め塩蔵する方法である。
新鱈は将軍家へ5本、各大名、御老中へ133本、津軽藩邸へ20本との記録も残る。腹を裂かないことで、切腹を忌み嫌う武士に大いに受け、正月の縁起物として重宝されたのだ。
文政4年(1821)の正月の将軍の献立には、澄しや汁として7回ほど塩タラが供されており、時の将軍もマダラを食している。
津軽藩と南部藩が反目し合っていた頃、津軽藩は平舘と蟹田の漁業者が開発した焼山沖の深い漁場で漁獲しており1番鱈を蟹田に命じていた。南部藩では脇野沢の漁師に褒美を出して初鱈を確保し江戸表まで、役人が早馬で夜通しかけて届けた。
とは言っても今なら1日のところを12日から16日だから大変であったろう。将軍の膳にはどちらが載ったかは不明であり、「サンマは目黒が良い」と言う落語のようなネタも無い。