第二十話 善知鳥の話

本名は白井知之らしいが「白井英二」や「秀雄」、「白井真隅」ほか様々な名前を使っていた。50歳半ばにようやく「菅井真澄」を名乗るが、このように名前を頻繁に変えた人物に葛飾北斎がいて、幕府のスパイだったのではと現在でも言われている。
細川純子は「菅江真澄の文芸生活」の中で「ますみ」のペンネームは、日本書紀や万葉集から引いていると言う。それは「白銅鏡」(ますみのかがみ)である。
室町時代の辞書「易林節用」では「真角鏡」(ますみのかがみ)を、曇りがなく澄んだ鏡の意味の詩歌語であるとしている。
賀茂真淵は「冠辞考」で“真そ鏡てふ語は、真澄鏡てふ意味なり”と書いている。馬淵は真澄をずっと後方支援してきた植田義方の親戚であり、馬淵の書物は読んでいたと思われる。

善知鳥の話
夏泊半島では、真澄は峠からの眺めをよく日記に記述している。
例えば稲生を越えて、小稲荷の山越えでは、油目碕を見渡し離れ小島や浦々の風景が良いと描いている。浦田、馬屋尻からの眺めも賞賛している。山越えの道は魅力溢れる資源であることを書き続けた真澄に刮眼し、着地型観光の資源掘り起こしを進めることが肝要である。
善知鳥と言う地名は全国にある。宇頭あるいは謡と言う地名が多いが、秋田や青森では圧倒的に善知鳥である。
善知鳥坂とか善知鳥峠は、切通しの坂道が基本のようだ。
謂れを辿ると神奈川県足柄下部の真鶴町岩の海岸に向かう坂道に「謡坂之碑」がある。
源頼朝が敵の襲来を逃れて船出したとき、嬉しさのあまり、謡い乱舞したことから付けられたという。勝手な解釈だが「ウトウ」は「謡う」から来ているのかもしれない。
夏泊半島を一周した真澄は、善知鳥碕の桟(うとうまいのかけはし)を渡っている。
――善知鳥碕の桟が。こごは天明8年さ来てらどごろじゃな
天明8年は真澄が宇鉄(三厩町)から松前に津軽海峡を渡った年だ。
天明5年8月、真澄は北海道に渡るため、岩館(八森町)から「西浜街道」を北上した。深浦の黒崎(岩崎)で件の「貝釜」の焼き塩づくりをみている。秋田から津軽にかけて日本海のサンセットは非常に美しく真澄もその風景に圧倒されたはずだ。
やがて鰺ヶ沢の赤石川に辿り着くが増水しており足止めをされた。台風後だったのか記述はないが、刈り取った稲は飛ばされ、畑の作物も根こそぎ持って行かれている。
「おととしの飢饉(けがぢ)よりひどい」と村の者たちは泣いている。天明3年は春から天候が不順の上に信州の浅間山の歴史に残る大噴火があり、その火山灰の影響は東北にも及び、津軽地方は大飢饉となった。
真澄は赤石川の洪水が収まると弘前へ向かい、8月18日に青森に入った。
陸奥湾のはるか沖には下北半島の釜臥(かまふせ)山、さらに沖の波間に憧れの北海道松前が見えた。